上総金田氏の歴史(歴代記)
 

   

 
 
第七章  上総金田氏の終焉 その4
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第一章 第二章 第三章 第四章 第八章

 
  第六章では上総金田氏と上総武田氏の関係について述べてきた。第七章では上総金田氏の終焉につながる出来事を扱う。
その出来事とは、古河公方足利高基の弟足利義明を擁した真里谷氏・里見氏が、古河公方足利高基に属する千葉氏・庁南武田氏と争い勝利し小弓公方足利義明の誕生となる出来事である。
小弓公方足利義明については兄である古河公方足利高基と不仲になり奥州を放浪していたというのが通説だったが今日では誤りと指摘され、古河公方家の内紛で父足利政氏が兄足利高基に敗れ武蔵国岩付城に移ってくるまで父を支え、その後真里谷信勝の誘いに応じて両総方面で新たに小弓公方として自立したと考えられる。
里見氏についても南総里見八犬伝などの影響で歴史的事実が歪められ伝わっている可能性が高く、里見氏に関する小説などを読んでも参考にはなりにくい。しかし上総金田氏終焉に里見氏が関与したことは千葉大系図などの内容から類推することができるので、里見氏を調べることでによって上総金田氏がどのように終焉を迎えたのかを解明したい。

金田常信(蕪木常信から改姓) 金田信定 金田宗信  ― 金田信吉   金田正信
       
   └  金田正興
                 (三河金田氏祖) 
 
 (8)庁南城落城の歴史的意義

庁南城落城により古河公方足利高基陣営の千葉介勝胤が真里谷氏・里見氏など足利義明陣営に対し劣勢になったことで、原友幸が城主の小弓城落城に大きく影響したは既に述べた。
しかし庁南城落城について最も注目すべきことは、小弓公方足利義明が庁南武田氏が支配していた上総国にある御料所を取り戻した可能性が高いことである。
小弓公方足利義明は真里谷信勝が古河公方・千葉介に対抗するために、両総方面の権威として奉じるために招かれたのであった。真里谷氏は利用する目的で招いたはずが、小弓公方は真里谷氏・里見氏に君臨し武蔵国・相模国を支配する扇谷上杉家とも親しい関係に成り、常陸国の小田氏・多賀谷氏まで支持する南関東に一大勢力圏を築いたのであった。
上総国には鎌倉公方足利持氏の時代に上総本一揆などで取得した御料所が多く存在していた。享徳の乱で古河公方足利成氏と関東管領上杉氏が対立し、古河公方足利成氏が派遣した武田信長は古河公方の代理として御料所を収公し上総国の支配権を確保する礎にしたことは既に述べた。
実質的にはこれら御料所は上総武田氏が支配していたが庁南城落城により庁南武田氏が軍門に降ると、古河公方足利政氏から継承して小弓公方と称した足利義明が公方領として庁南武田氏が支配した御料所の返還を求める権利を主張できたはずである。これら御料所は庁南城周辺に多く庁南武田氏は小弓公方足利義明に従属しなければならない状況になってしまった。
原友幸が城主として支配した小弓城周辺の地域を公方領とした以外に、実質的に庁南武田氏の支配していた地域を従属させたことで、小弓公方足利義明は独自の軍事力・経済力を有することになった。
小弓公方足利義明が第一次国府台合戦で自ら兵を率いて戦い討ち死にしたことを考えると、直属軍を指揮したり親族や部下に所領を与えることができるのに十分な経済力を有していたと考えられる。下総国では小弓城を拠点に勢力図を拡大し、上総国では御料所などを拠点に公方の支配地域を拡大したことで直属軍を配備したり親族や部下に恩賞を与えることが出来たのではないだろうか。

その後、大永4年に小田原北条氏が小弓公方と友好的な扇谷上杉家の武蔵国に進出してくると大きな脅威となってくる。更に小弓公方を支えた真里谷氏と里見氏で内紛が発生するなど小弓公方にとって逆風となってくるのである。
これらの内紛は北条氏綱や里見義堯による陰謀と考えられ、小弓公方足利義明は次第に北条氏綱によって追い詰められていくのであった。
第一次国府台合戦で小弓公方足利義明が討ち死にした原因は自らの軍事力・経済力を過信したことが挙げられる。

しかし、第一次国府台合戦で小弓公方足利義明を見殺しにした里見義堯であったが、小弓公方足利義明の遺児国王丸(後の足利頼純)を安房国で庇護した。第一次国府台合戦で勝利した小田原北条氏によって両総方面は秩序は確保されたが、小弓公方関係者を保護した里見義堯が上総国に進出すると小弓公方の御料所の被官や小弓公方恩顧の領主を味方にすることができ、里見氏発展の原動力になった。


 (9)何故金田正興は三河国に移ったのか

庁南城落城を検証の項で庁南城落城により真里谷信勝の憎しみを受けた金田正信が自害させられたと述べた。
庁南城落城により勝見城を引き渡し降伏した弟の金田正興も一緒に殺害されてもおかしくない状況であった。
助命に貢献した人物として考えられるのが小弓公方足利義明なのである。
還俗する前は鶴岡八幡宮若宮別当職として東国宗教界の最高権威者だった足利義明にとって、無闇な殺害を許すことはできなかったのである。
小弓城落城でも城主原友幸と一緒に戦い降伏した原友胤・虎胤親子は甲斐国に追放されたのも同様であった。後に天文6年(1537年)に起きた上総錯乱で足利義明と敵対関係になった真里谷信隆も降伏後武蔵国金沢に逃れることができた。
足利義明の温情のおかげで原虎胤は甲斐国守護武田氏に仕え、後に武田二十四将の一人として歴史に名前を残した。

小弓公方足利義明によって助命された金田正興であったが、本人も希望したであろう下総国に行くことは許されず三河国に追放となるが、何故三河国なのかを考えてみたい。
寛政重修諸家譜では金田正興について次のように記されている。

「上総国勝見城に住し、大永年中(1521年~1528年)上総国を去って相模国愛甲郡金田鄕に住みし、後三河国幡豆郡一色村に移りて(松平)信忠君・清康君に仕えたてまつる。」

この文章は江戸時代に幕府が寛政重修諸家譜を作成するために、編纂者が旗本金田氏諸家が提出した系譜・先祖書などを吟味し、更に千葉大系図など関連する資料とも照合した結果作成されたものと考えられる。大永年中・相模国に住むという事柄は千葉大系図による影響で、上総国を去って三河国一色村に住んだという事柄は金田氏諸家の先祖書などで伝わっているものと考えられる。
相模国愛甲郡金田鄕とは現在の厚木市金田を指すと思われるが金田正興が住んだという伝承は無く、寛政重修諸家譜を編纂する時に無理に関連付けられたものと断定できる。
金田正興が上総国から三河国に追放されたのは庁南城が落城した永正14年(1517年)もしくは翌年と推定される。兄金田正信が千葉介勝胤とほぼ同年代だったと考えられ、当時40代前半だったと考えられ嫡子金田正頼は20歳前後と推定される。母方の親族が粟飯原氏で姪が千葉介昌胤の妻でることからも下総国に戻りたい気持ちは強かったはずである。
当時相模国は北条早雲が制圧したばかりで、金田正興・正頼親子が北条氏に仕官することは出来たはずである。永正15年(1518年)北条早雲が隠居し関東への野心満々の北条氏綱が家督を継承するとになるので、北条氏綱が将来下総国千葉氏との関係に役立つ金田正興・正頼親子を見逃すはずは無いのである。

逆に言えば小弓公方足利義明にすれば金田正興・正頼親子の命を助けるが、将来に禍根を残すことの無いように関東以外への追放を助命の条件としたのではないだろうか。ここで千葉介を憎む気持ちが強かった真里谷信勝が、
「金田正興が仕えた庁南武田氏は代々上総介と称した。それに対し真里谷武田氏は代々三河守と称している。上総国を去るなら三河国へ行くのがよろしかろう。」と提案した。
金田正興・正頼親子にとって縁もゆかりも無い三河国へ行ったならば困窮するのは明白である。このことを承知で意地悪く提案したのである。
小弓公方足利義明も同意し金田正興・正頼親子は三河国へ追放となった。途中親子が命令に背くことの無いように三河国へ直接護送されたのであった。
しかし、人生とは皮肉なもので金田正興・正頼親子が三河国へ追放されたことで、将来徳川将軍家となる松平氏に仕官することになるのであった。


 (10)金田正興と粟飯原孫平

千葉大系図で金田弥三郎正興については「大永年中、参州(三河国)に住む」と記されている。
しかし、千葉大系図の粟飯原出雲守光胤に下記のように記されていることで、金田正興については一気に謎めいてしまうのである。

  • 下総国小見川城主粟飯原但馬守胤次(出家して源公入道と号す。天文16年(1547年)北条氏康の9男光胤(7歳)に家督を継承させる。
  • 大永年中(1521年~1528年)に粟飯原胤次の嫡子孫平常次が従兄弟の金田弥三郎正興とともに相模国へ出奔した。
  • 嫡子孫平に去られた粟飯原但馬守胤次は北条氏から養子を迎えることとした。
  • しかし、その後嫡子孫平が実家に戻り父に謝り許しを請うたので、北条氏からの養子話はなくなった。
  • その後、嫡子孫平常次が亡くなったので、北条氏から養子として光胤が迎えられることになった。
  • 粟飯原出雲守光胤は家督を継承後勇名を馳せるのであった。天正16年(1588年)に没したので千葉介邦胤の次男俊胤が家督を継承した。
ここに書かれていることは矛盾だらけなのである。
大永年中に粟飯原孫平が相模国へ出奔し源公入道は北条氏から光胤を養子として向かえたと書かれているが、天文16年に光胤(7歳)なら大永年中には生まれていないのである。
粟飯原光胤を北条氏康の9男と書かれているが、北条氏側の資料に該当する人物はいない。
弘治3年(1557年)千葉胤富が千葉介を継承し佐倉城に移ったときに、それまでの居城であった森山城を源公入道に譲ったと千葉大系図に記されている。
家督を養子の光胤に継承させ隠居の立場の源公入道が重要な城である森山城主になるのは不自然。胤富・邦胤2代に仕え重要な役割を果たした原親幹が森山城主だったことを考慮する必要がある。

以上のことから下記のような結論に達しました。
①粟飯原出雲守光胤は架空の人物。粟飯原孫平常次が亡くなり断絶した粟飯原氏を、千葉介邦胤の次男俊胤が継承するために断絶していなかったように見せかけるために創造された。
②弘治3年(1557年)千葉胤富が千葉介を継承してから、小田原北条氏との同盟を重視し安房・上総を支配する里見氏との対立関係となった。千葉介胤富の母方の実家である金田氏が常信・信吉の代から里見氏と戦ったように書かれているのもそのような事情からである。金田正興・粟飯原孫平が相模国に行った話も小田原北条氏に頼ろうとしたように見せかけるためのもの。粟飯原光胤の話も含めすべての話は事実ではないが小田原北条氏との同盟関係につながるように書かれたもの。
③千葉介胤富が母方の実家である金田氏について記録を残してくれたおかげで、上総金田氏が粟飯原氏と縁戚関係だったことや三河国に移ったことが公式記録として残ったことはありがたいことである。


●金田正興についてのまとめ

  • 金田正興が上総国から三河国に追放されたのは庁南城が落城した永正14年(1517年)もしくは翌年の出来事。
  • 三河国に追放となったのは、古河公方・千葉氏を憎む真里谷信勝が金田正興を困窮させるために縁もゆかりもない三河国を選んだことによる。
  • 当時、金田正興は40代前半・嫡子正頼は20歳前後。
  • 小弓公方足利義明の命令による三河国への追放で、相模国に立ち寄ることは許されなかったはずで、相模国に移ったという話は後世の作り話。
 
 
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